弥生 15日

弥生の春に・・・。

今の問題は、前世紀にも一度起きたことだ。同じようなプロセスを経て、国家は悲劇的結末に陥った。1910~20年代の、「大正ルネッサンス」の崩壊と、90年代の「平成不況」は類似したものだ。どちらの場介も柔軟性のない政府と教育が、自由と独創性の時代を抑圧した。第二次世界大戦の前に、日本を軌道外に転ずるよう仕向けたメカニズムは、ひたすら国力拡大だけを目標にした体制であった。

今回も同じである。

「日本のパラダイム」とは「強国・貧民」をいい、過去に、海外のオブザーバーはこれをうらやましく思い続けてきた。このパラダイムの美徳は国民が大きな犠牲を払うことにより、国家の経済力が増してゆくことである、しかし、今こそこのパラダイムを見直し、日木のコンクリートに覆われた川、ゴミゴミした街、金融界の不振、「ハローキティー」化された文化、みすぽらしいリゾート、公園、そして病院などを直視することが必要だ。日本はいったいなぜこうなってしまったのかと考える時、意外と生け花の世界からひとつの答えが得られる。先日、ある華道家に質問をした。それは長い間、気にかかっていたことだった。昔ながらの生け花と。奇抜な今日のそれとの、真の違いは何なのか。針金やビニールの使用、花と葉がホッチスで留められ、折り曲げられるよう、マニュアルで示されたX度の角度などを私は変に思うが、ある意味でこれらはすべて伝統に由来するものなのだ。ではその決定的な違いとは。友人の答えは、現代の生け花には「実がない」というものだった。伝統的な生け花には宗教上あるいは儀式という目的があった。昔の人々は自然の神秘に尊敬の念を持っていた。宇宙の創造力にあふれた息吹を見出し、応えるための手段として生け花を用いたのだ。しかし今日、それも失われ、単なる飾り物としての目的しか持たず、植物や花そのものの本質を問うことはない。代わりに、花は生け手の気まぐれなニーズに応えるためだけに使われる、ビニールや針金などの材料と、ほとんど変わらない「素材」として扱われている。要するに「実」もなければ精神的な目的もなく、自然が本来持つ力に通ずるものも何もない、ただ空っぽなデザインなのだ。華道家のコメントは問題の核心をつくものであった。というのも、「実」がないというのは現代日本のすべての事柄にも言える。土木工事(目的もなく進める)、建造物(周りの環境とニーズに無関係)、教育(歴史や方程式を暗記させヽ独自の創造力や分析力を教えない)街並み(古きを壊す)、株式市場(配当を払わない)、不動産(利潤を生まない≒大学(就職までのつなぎ・社会に貢献しなど、国際化六世界を締め出す)、官僚制(真のニーズに関係ないところで金を使う)、企業のバランスシート一(粉飾決算)、環境省(環境保護に無頓着)薬品(テストされていない模倣薬)、情報(曖昧、秘密、嘘)空港(人間に適さず、大根には適す)―体系全体に「実」がないのだ。日本のものごとのやり方と、現代生活との間には、内外を問わず予想をはるかに超えたギャップがあるとしか言いようがない。だから、私は日本を近代化に失敗した例であると申し上げている。手の込んだ「鬼」のモニュメントは、「実」の重みに対する一種の防護壁なのだ。しかし、最後には「実」が勝つIそれでも地球は太陽の周りを回るから。古典的な「近代化論」では、日本は西洋から入ってくる新しい発想をうまく取り入れた国になっているが、ほんとうはこれらの発想と長きにわたり苦しい戦いを繰り広げてきたのだ。30年代と同様に、初期の大きな成功が、時間が経つにつれ惨劇に変わってしまうというパターンを、今再びくりくりかえしている。初期の段階では、日本はたしかに西洋の発想を上手に取り入れ、独自の方法でみごとな結果をおさめる。つい最近まで世界中が日本の品質管理、製造、経済そしてマーチャンダイジングのテクニックを研究していたことを忘れてはいけない。しかしながら第二段階に及ぶと、自動操縦にギヤを切り替え、その時から新しい発想を入れなくなり。既存のシステムに頼ってしまう。方向を変られる人がいないから最後に行き過ぎ、座礁してしまうのだ。文化の問題は立ち上がりにくいが、打開する道はある。それは「実」を持つことだ。日本が立ち戻らなくてはならない「実」とは、かならずしも西洋で見られる真実ではないかもしれない。日本独自の精神といったものであろう。本書の中でもくりかえしご覧いただいたが、昨今「日本的」なものの典型として罷り通っているものーたとえば利子の付かない金や失敗することのあり得ない会社―などは、西鶴や威勢の良い商人には考えもつかなかったことだ。マニュアル化された生け花は、本来の花を完全に否定したものだ。仰々しい建築物は、素朴で繊細な美意識といった伝統への屈辱で、二コニコグッズは、能。俳句、石庭など、洗練された大人の文化から見れば情けない終演だ。土木工事の狂乱が大昔から尊んできた神聖なる国土そのものを破壊している。「実」との戦いの結末は、日本文化の中で最も大事なものを引き裂き、そして消滅させる結果となってしまった。日本が本来の姿からかけ離れたこと―それが日本人が憂えていることだ。過去の二世紀に、日本の課題は鎖国から脱却し、世界で活躍することだった。それにみごと成功し、最も力のある国になった。しかし、この成功はその裏に途方もなく大きい代償を伴ったものであった。

日本は日本でなくなった。

家路を探し求めるーこれが今世紀の課題だ。

アレックス・カー 著書 「犬と鬼」 結論から抜粋

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